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2025.11.06

フィリピンの祝日 11月30日 ボニファシオ・デー

フィリピンの祝日には、国民的英雄の名を冠した日があります。

11月30日は「ボニファシオ・デー」と名付けられ、革命家アンドレス・ボニファシオの誕生日を祝う日です。

2025年は日曜日にあたるため、振替休日規定のないフィリピンでは、お休みを一日損したと感じる人も多いのではないでしょうか。
「ボニファシオ」と聞いて、高級コンドミニアムと商業施設が立ち並ぶ「ボニファシオ・グローバル・シティ(BGC)」を思い浮かべる人は、フィリピン首都圏に滞在経験のある方かもしれません。弊社の本社もあるこの地域は、もともとはフィリピン国軍本部が置かれていた「ボニファシオ駐屯地」が民間企業に払い下げられ、近年になって商業地としての開発が進んだエリアです。
軍の重要拠点にその名を冠せられ、硬貨や紙幣にたびたび顔が描かれるアンドレス・ボニファシオ。彼はどのような人物で、フィリピン独立に際して果たした役割とは何だったのでしょうか。そして、なぜ今なお英雄としてフィリピン国民に敬愛されているのでしょうか。

 

革命家になるまで

 

ボニファシオは1863年、マニラ市トンドに生まれました。
特権階級出身であることが多いフィリピン革命の志士たちとは異なり、彼は平民の出自です。若くして両親を失う不運に見舞われ、6人兄妹の長男として、14歳で家族を養う責任を負うことを余儀なくされました。十分な教育をほとんど受ける機会がなかったため、読み書きは独学で習得したとされています。学びの手段は読書から得られ、アメリカ大統領の生涯やフランス革命など、海外の民主化運動について書かれた書物に大いに感化されたようです。その中にはホセ・リサール博士の著作もありました。
リサールがそうであったように、都市部の中間層は穏健な改革を求めていたのに対し、ボニファシオは初めから宗主国スペインからの完全独立を目指す革命を志していたようです。彼は、リサールが設立した秘密結社「ラ・リガ・フィリピナ」にも結成当初から関わっていました。

 

武装蜂起へ

 

ラ・リガ・フィリピナを危険視した植民地政府は、1892年にリサールをミンダナオ島のダピタンへ追放します。
これを受けて、ボニファシオらは武装闘争をも辞さない新たな組織「カティプナン党」を、中下層階級の有志を中心に結成しました。相互扶助と貧民層への教育を当目とするこの党は、次第に支持を広げ、全国的な組織に成長します。正確な記録は残されていませんが、そのメンバーは30,000人とも100,000人とも言われます。ボニファシオは武装蜂起の急先鋒でしたが、後に初代大統領となるエミリオ・アギナルドらの慎重派と意見を違えます。彼はダピタンに追放されていたリサールにお伺いを立てますが、「まだ機は熟していない」と蜂起を思いとどまるよう説得されます。
諜報からうした動きを察していたスペイン政府は、数百人に上る大量の容疑者を逮捕、幽閉。追跡の手から何とか逃れたボニファシオは、我に続けとばかり全国的な武装蜂起を呼びかけ形勢逆転を賭します。

 

バリンタワクの叫び

 

招集されたカティプナン党員たちの中には、装備の不足や成功への不信感から、全面的な戦闘開始に異を唱える者も少なくありませんでした。
その時、ボニファシオは熱狂的なスピーチをおこない、「フィリピン万歳」と叫びつつ携行していた「セドゥラ」と呼ばれる人頭税証明書を取りあげ破り捨てます。
この「セドゥラ」とは、植民地政府がフィリピンの成人に課していた、納税証明書であり、身分証明ともなる公的文書でした。
ボニファシオの行動に鼓舞された党員たちはこれに続き、一斉にセドゥラを破り捨てることで、スペインへの不服従の意思を表明したとされています。
この事件は、その地名を取って「バリンタワクの叫び」と呼ばれ、長年の圧政に苦しめられ続けてきたフィリピン人たちが掲げた反旗の象徴として記憶されています。
同時に、西洋列強による植民地支配を断固拒絶し、民族解放と国民国家フィリピンの創設を宣言する、歴史的な第一歩でもありました。

 

アギナルドとの確執、そして非業の死

 

首都マニラ攻防戦では多くの犠牲者が出ました。反乱軍は圧倒されながらも戦いを続けますが、徐々に押し戻されカビテ、ブラカン、モロンへと敗走していきます。
ボニファシオは自らを、新しく打ち立てた「フィリピン人の国」の大統領であると宣言しましたが、人気は戦闘で優勢であったカビテのエミリオ・アギナルドに移っていきます。不和を深めていく2つの派閥問題を解消するための会合がもたれますが、一致した方向性を共有するには至りません。やがてカビテ州テヘロスで行われた選挙では、アギナルドを大統領として選出する革命政府が樹立されます。内務大臣の任を負わされることになっていたボニファシオは、この組閣自体を認知せず、別の自治政府を設置する協定に署名します。これをもって両者の溝は決定的なものとなりました。
アギナルドはボニファシオの逮捕を命じ、兄弟とともに深手を負って拘束されました。一方的な裁判の末に反逆と煽動の罪で、死刑が宣告されますす。この決定をアギナルドはのちに悔いたとも伝えられていますが、1897年5月10日、ボニファシオは処刑されました。

 

まとめ

 

果たして彼は革命中の反逆者だったのか、それとも正当な第一代フィリピン大統領だったのか。残された資料も乏しく、その判断は簡単ではありません。ただフィリピンのカレンダーには、国民の祝日としてのアギナルド・デーはありません。
自由と独立へのフィリピン人の願いはボニファシオ死後も、大国の思惑と世界史のうねりの中で翻弄され続けます。その間、権謀術数に長け常に権力闘争の中心にいたアギナルドと、武力蜂起の端緒を開いたにもかかわらず、志半ばにして同胞の手で命を落としたボニファシオの存在は対照的です。
年少の者たちの為に自らの学業を犠牲にし、僅かな賃金のために報われない労働に勤しみ、やがては強大な体制側に与することを良しとせず、非力な大衆の力を結集し、反抗に立ち上がったボニファシオ。フィリピン人がボニファシオを今なお革命の父、庶民の英雄と認め、民主的な独立国家としての自由を享受できることへの感謝を捧げる日が、ボニファシオ・デーなのです。