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2026.02.03

フィリピンの市場と祝祭の記憶:命を食べるということ

フィリピンで生鮮食料品を購入する場合、大きく分けて二つの選択肢があります。一つは都市部にある、日本でもおなじみのスーパーマーケット。
筆者は海外に行くと、必ずスーパーマーケットの食品売り場をのぞきます。日本では見かけない商品や陳列方法がとても興味深いです。
もう一つは、ウェットマーケット/Wet Marketと呼ばれる市場です。日本の商店街にある個人経営の八百屋さんやお肉屋さんというのは、フィリピンでは見かけません。
市場で買い物をする場合、ちょっとした注意が必要です。
まず小奇麗な装いで行くところではなく、出来れば、濡れても構わないサンダル履きがお勧めです。値段は基本的に表示されていないので、売り手の言い値から多少割引してもらうぐらいの心構えが必要です。
フィリピンでは、いつも同じ店で買うことで顔馴染みになり、これをタガログ語ではスキ(日本語の「好き」と同じ発音です)になるといいます。スキのお客にはちょっとしたおまけをしてくれたり、より新鮮なものを選んでくれたりします。逆に、値ごろ感を知らない一見の客は注意が必要です。
売れ残りを掴まされたり、支払った金額が計算と合わなかったりすることもあるので、自分の目で確認して納得のいくお買い物をして下さい。
さて筆者が市場を訪れて特に面白いと思うのは、食肉売り場です。今回はお肉についてのお話です。

 

市場の食肉売り場

 

南国フィリピンの市場は、基本的に屋外にあり、冷房も冷蔵設備もほとんどありません。そのため、鮮度の高い屠殺されたばかりの肉が手に入ります。
鶏肉は工場で処理されたものが多いですが、生きたままケージに入れられていることもあります。その場合、選んだ個体をその場で絞めてもらい一羽分を持ち帰ります。
豚肉は、店頭で一頭丸ごと解体されます。丸太の切り株をまな板代わりにし、フィリピン人が何を切るのにも使う「ボロ」と呼ばれる鉈のような大きな包丁で、客の指示にあわせて肉の塊りが切り分けられていきます。なぜか笑っているように見える豚の頭は、鉄製のフックに吊るされたりしています。
挽肉が欲しい場合は、必ず塊肉を目の前で挽いてもらいましょう。間違ってもすでに挽肉になっているものを購入してはいけません。何が入っているかわかりませんから。
家鴨や山羊など、少し珍しい肉を使ったエキゾチックなレシピに挑戦する場合は、それらを扱う専門店を訪れる必要があります。

 

地方の市場

 

フィリピンの地方でも常設市場があるような大きさの町であれば、規模の違いはあれど状況はだいたい同じです。
しかし、毎週日曜日にしか市がたたないような僻地では、肉だけでなく生鮮食料品を買える機会が限られています。冷蔵設備がないので、豚や山羊がその日のうちに完売することを前提に、生きたまま連れてこられます。山間部では水牛の肉が売られていたり、自分の水田で捕まえたドジョウやタニシだけを売る人がいたり、山でとれた名も知らぬ茸が並べられていたり、珍しいものに出会えることもあります。
フィリピン人は基本的にお肉が大好きですが、日常的に食卓に並ぶのは、経済的に恵まれた都市部の家庭だけなのかもしれません。

 

祝祭と結びついた食肉

 

市場もないような山間部の僻地にある小さな村では、食肉は非日常のものであり、祝祭と切り離せない特別な存在です。
つまり、自分が世話をしてきた家畜を屠り、それを誰かと分かち合い、振舞うという行為そのものが、祝祭の中心にあるのです。
こうした文化に触れると、肉を食べることが、日常とはかけ離れた、命と向き合う特別な体験であることに思い至ります。

 

水牛を食べる

 

印象的な例として、ベトナム戦争映画「地獄の黙示録」のクライマックスに登場する、ボロによる水牛の屠畜シーンがあります。
この場面は、実はベトナムではなく、ロケ地であったフィリピン・ルソン島の山岳地域に住む少数民族のイフガオ族の生贄供儀の様子を撮影したものです。あまりに生々しいシーンのため、現在の基準から判断すれば、劇場公開時にはカットされていたかもしれません。
イフガオ族でこそありませんが、筆者自身も、山岳地で行われたある結婚式で、実際に水牛の屠畜に立ち会ったことがあります。
暴れないように頭部を葉の茂った大きな枝で覆い隠し、水牛の頭に一気に斧を振り下ろすと、動物は力なく前足を折りました。
世界遺産にも数えられている山岳民族の棚田での稲作は、水牛の助けなしには成り立ちません。急峻な山肌に位置した稲田では、一枚一枚の耕作面積が狭いため、トラクターなどの機械は使えず、全ての作業を人力と牛力で賄わなければならないからです。そんな家族同然の協力関係にあった家畜の命が、娘の結婚という人生の節目に命をささげるのです。
命を失った水牛は、家族や近隣の人々によって丁寧に解体、調理されます。
そのすぐ横では伝統的な儀式が始まり、音楽が鳴り響く中、人々が入れ代わり立ち代わり輪となって舞い続けます。動物は肉や内臓だけではなく、その硬い皮すらも余すことなく食材として使われ、最後には骨と蹄と立派な角だけが残されました。

フィリピンのこうしたお祝いの場に、日本のように招待された人だけが来るわけではありません。その村の住人ですらなく、山を越えた近隣の村の者たちも訪れます。つまりは縁のあるなしに関わらず、誰でも歓迎されるのです。
夜遅くまで呑んで食べて歌って踊って、翌日もまた呑んで食べて…料理がなくなるまで続きました。あの水牛は、そんな大勢のお祝いに関わった人々の胃袋を満たしてくれたのです。

 

まとめ

 

スーパーマーケットに陳列された精肉後の肉しか知らなかった都会育ちの筆者にとっては、家畜そのものが未知の存在でした。
「食べる」ということが、かけがえのない命をいただくという行為であることを経験させていただきました。前日まで水牛がいた辺りはいかにもがらんとして、その不在を際立たせていました。
街で暮らす人々は、いつしかこうした命と直接結びついた食の経験を失ってしまったのかもしれません。でもお金で手に入る生活の中で、「本来的な食とは何か?」と、改めて考えさせられた出来事でした。

執筆者 上村康成 From TDGI東京オフィス